――――――久しぶりにケーキを焼いた。



 最後の仕上げを終えてから、あたしは我が力作の全体を見回した。

「うわーっ 姉ちゃん、すげーっ 美味そうーっ」

 隣で見ていた弟たちが、ほんとうに嬉しそうな歓声を上げる。

 いくつかに切り分けてから、光と歩に一切れずつ皿に盛って出してやったとたん、元気よく『いっただきまーすっ!』と声をそろえてフォークを刺して、すごい勢いで食べ始めた。よしよし、いつも教えている通り、ちゃんとお行儀よく食べているな。母親がいないから行儀が悪いなんて、世間さまに絶対言わせたくないから、行儀や身だしなみについてはあたしは口をすっぱくして弟たちをしつけているのだ。

「こっちは、お父さんと姉ちゃんの分だからね。絶対食べちゃダメだよ」

 別の皿に二切れ乗せて、冷蔵庫の中へ。もう一切れお皿に乗せて、こちらはお仏壇へ。生前のお母さんは無類の甘いもの好きだったそうだから、こういう時には必ずお母さんの分も用意することにしているのだ。

 お母さん、ケーキを焼いたから食べてね。まだ食べてないから味のほうはよくわかんないけど、光と歩の食べっぷりを見たら決して不味くは無いと思う…多分。

 まだあたしが小さい頃に亡くなってしまったお母さん。写真以外では、もう顔も覚えていないけれど。それでも、遺してくれた手紙―――――それも、あたしたちのひとりひとりにちゃんと一通ずつ―――――のことも含めて、とても愛してくれていたことは覚えているから。だからあたしはお母さんが大好きで。もちろん、お父さんも弟たちも大好きで大切だから。ずっとずっと、愛していこうと決めたのだ。

「姉ちゃん、ジュースこぼしたあっ つめてーっ タオルと着替えーっっ」

「姉ちゃん、お皿落としちゃったあっ いたーっ 指切ったーっ」

 ……手間がかかり過ぎて、時々ほっときたくなる時もあるけど。

 弟たちの後始末をしてから、あたしは切り分けたケーキを紙の容器に入れる。

「お姉ちゃんちょっとでかけてくるから。何かあったらケータイにかけてね」

「はーい、行ってらっしゃーい」

 弟たちのお見送りを背に、あたしは家を後にする。目的の人物は、今日は家にいると言っていたから、そちらにいれば会えるはずだった。



「素ちゃーん、逢いにきちゃったあっ」

 だからって、何もよりによって一番会いたくない人に会わせなくてもいいじゃん、神さまっっ

「悪い? ここはわたしの家でもあるのよ、自分の家に帰ってきて文句言われる筋合は無いわね」

 そういえば、この家で矢部先輩を刺したって話だったっけ。それもあるから、記憶が戻ってもこの家に戻ってくるつもりはないのかな。それにしたって、よくもここまで厚顔無恥でいられるもんだわ。

「誰も悪いなんて言ってませんよ。そういえば、やましいことがある人ほど言い訳がましくなるって言いますよね」

 そう言ってやると、可菜子さんをとりまく空気が、一瞬にして鋭いものに変わった気がした。少しは罪悪感とか感じてるのかな。とてもそうは見えないけどねっ

「…何が言いたいのよ」

「別に〜。一般論を述べただけですよ」

 何なら、いまここで第二ラウンドを始めてもいいのよ。この間は、矢部先輩と平尾先輩に止められて、決着つけられなかったからね。このひととは、きっちりケリをつけなきゃ、あたしの気が済まない。素子の話じゃ、まだ多少身体は弱いらしいけど、日常生活を送るには何ら支障は無いって話だから、遠慮はいらないしねっ

「あーうっせえっ 何しに来たんだよ、てめえらはっっ」

 ツンドラ気候並みの空気に辟易したのか、ソファの向こうで素子が怒鳴る。そうだ、肝心の用事を忘れるところだった!

「素ちゃん、わたし素ちゃんのためにケーキ焼いてきたの、食べて食べてっ」

「素子、これあたしの焼いたケーキ。おすそわけだよ、食べて食べてっ」

 な…!

「ちょっと、真似しないでよっ 手作りケーキで家庭的な女の子アピール!? とことんヒロインぶりたいのねっ」

「お嬢さま育ちでろくに家事もしてこなかった人が、気まぐれに作ったくらいで、威張らないでくれます!? こっちは菓子はもちろん、和洋中何でもござれなんだからっ」

 なめんじゃないわよ、こちとら主婦暦約十年よっ 何の勝負だって受けてやるわよっ

「てめーら、いい加減にしねーと窓から放り出すぞ、おらっ」

素子の叫びが、広い家の中に響き渡った。


      *   *   *




 あー、腹が立つ。ホンットむかつくわ、あの人。

血のつながりが何よ、なんぼのもんよっ 姉なら、妹や弟の幸せを願うのがホントってもんでしょうが。縛りつけて独占なんて、ホントの愛じゃないわよ、ただのジコチューよっ

……ホントはわかってる。素子のこともそうだけど、あたしは可菜子さんに妬いているんだ。あたしがどんなに想っても手に入れられなかった矢部先輩の心を、ずっと独占している可菜子さんに。矢部先輩のことだけを考えて。先輩ただひとりを想ってきたあたしではなく、他の人だけを想っていた可菜子さんを。先輩は選んだのだ………。

あたしに何が足りなかったんだろう。他の、いままでの彼氏みたいに、想いが『重い』からというワケではなかったけれど―――――それで言ったら、矢部先輩と可菜子さんのそれぞれの想いは、他の人のどんな想いも比較にならないくらい重いものに違いない。

 ああダメだ。思い出すと、いまだに涙がこぼれそうになる。ぶるぶるとかぶりを振ってから、あたしは空を仰ぐ。

 どうしてあたしは、こんなに男運が無いんだろう。想っても想っても、ほんとうに報われることは無くて。この世には、あたしだけをずっと好きでいてくれる人なんていないんじゃないかって気がしてくる。


『崖っぷちの恋なんだ。もう誰にも邪魔されたくない…っ こんなことで一縷の望みさえ、断たれたくないんだっ!!


 ………いたかも知れない。ひとりだけ。

あたしが好きになって、自分から一所懸命想いを伝えて頑張って好きになってもらうこともしていないのに。それどころか、好かれている自覚さえ無かったのに。ずっとずっと、あたしだけを見つめて、あたしだけを想って、たくさんの人を率いる立場にある人なのに、あたしだけを守ろうとしてくれた人――――――。


 気づいたら、目的地の公園の前に立っていた。この中に、少し前に呼びだした人が待っているはずだった。

 その人はベンチに腰掛けていて、時折落ち着かない様子で黒縁のメガネを指で押し上げている。背も高いし、顔立ちも整っていてすごくカッコいいのに、たまに見せるそんな余裕の無い様子が、何か可愛い。いつもは冷静すぎるほどに落ち着いている感じなのに、あたしの前では全然違っていて、ほんとうにあたしだけを気にしてくれていることがわかって、何だか嬉しい。自分から好きになるのではなく、ただ好かれるのがこんなに嬉しいなんて。いままで、知らなかった。

「ひ…」

 声をかけながら近づこうとしたその時、その人―――――平尾先輩の目の前を駆けずり回っていた子どものひとりが、何かにつまずいてすっ転んで、思いっきり泣きだしてしまった。驚いたような顔で先輩が助け起こすが、よほど痛かったのか、子どもは泣きやむ気配は無い。先輩は本気で困ってしまったらしく、あわてふためいた様子でその子どもを高く抱き上げて。

「ほら、痛くない痛くない。泣くな」

 優しい笑顔で言いながら、高い高いをしてあげる。先輩は背が高いから、急降下と急上昇は子どもにしてみれば楽しいのだろう。さっきまで泣きわめいていた子どもが、みるみるうちにきゃっきゃっと笑いだした。それを見た先輩が、ようやくホッとしたような表情で、子どもを下ろした。

「あらあら、すみませーん。ありがとうございます〜」

 言いながら近寄ってくる母親らしき女性に、子どもは駆け寄っていき、先輩は恐縮したように会釈をする。と同時に、横で見ていた別の子どもたちの一団が、かがみ込んだままの先輩の背中に突進した!

「おにいちゃーん、ぼくもやってーっ」

「ぼくもーっ」

「あたちもーっ」

 さすがの先輩も、不意打ち、それも小さい子どもとはいえ団体の襲来には太刀打ちできなかったらしく、あっというまにつぶされて、下敷きにされてしまった。

「あらーマーくん、おにいちゃんに遊んでもらったの? よかったわねー」

「あっ ままーっっ」

 先輩を思いっきりつぶした子どもたちが、近くで立ち話をしていた各々の母親に向かって、笑顔で走り寄っていった。あとには、生ける屍と化した先輩だけが、取り残される。一部始終を見ていたあたしは、もうこらえきれなくなって、思わず笑いだしてしまった。

「ぶ…あははっ」

「む、室井っ!?

 あたしに気づいた先輩が、顔を真っ赤にして起き上がる。

「い、いまの見て…!?

「先輩って、小さい子どもに好かれやすいんですね。やっぱり、子どもにはいい人はわかるのかな」

「そ、そんなこと…」

「アレが素子だったら、子どもは本能で何かを感じ取って、絶対に近寄らないと思いますけど?」

 あたしの言葉に、先輩も思い当たる節があったのだろう、さっきまでの赤い顔はどこへやら、とたんに少々顔を青ざめさせて深くうなずいた。

「…そうだな。アイツは黒い悪魔だからな」

「―――――とりあえず、飲み物買ってきて座りましょっか」

 近くの自販機で缶ジュースを買ってきて、あたしたちはベンチに並んで座った。

「それで、用って…」

 先輩の言葉に、あたしは小さくうなずいて。脇、先輩とは反対側に置いてあった紙の箱を取り上げて、そっと渡す。

「え…これ?」

「あたしが焼いたケーキです。先輩にもおすそわけ」

「『にも』って、他に誰に?」

「え? 家族と素子っスけど、それが何か?」

 そう答えてやると、先輩はとたんに嬉しそうな顔になって。ほんっとーにとろけそうな笑顔を見せた。

 それを見た瞬間、あたしは自分の胸が小さく高鳴るのを自覚した。あれっ!? おかしいなあ、以前同じような極上の笑顔を見せられた時には、別に何とも思わなかったのにっ 今日のケーキみたいに甘い、乙女な笑顔だったからかなあ。これって、可愛い女の子に対する男の気分っ!? いやだあああ、素子と同類になるのはああああっ

「矢部にもやってないのに、おれには持ってきてくれたのか。すごく…嬉しいよ」

 言われてから、気がついた。そういえばあたし……せっかくケーキがうまく焼けたのに、矢部先輩のところに持っていこうとは、全然考えなかった…。弟たちと素子と。先輩に、いまもつけてるフレンチスティックのお礼にって思って、それ以上の人のことなんて、思い出しもしなかった。あ、あれっ!?

「いま食べても、いいかな?」

「あ、どうぞどうぞっ」

 …あれ? そういえば。

「先輩、甘いもの食べれるけどそんなに好きじゃないって前言ってなかったっスか!?

 いまさら思い出すあたしもどうかと思うけど、そんな人に無理に食べさせるような真似しちゃいけないじゃんっっ

「…いいんだ」

「でもっ」

 なおも言い募るあたしの前で、先輩は。箱の中からケーキを取り出して、手づかみでひとくち。

「室井が作ったものなら、おれは何でも食べたい。無理なんかしていないよ」

 にっこりと。ほんとうに迷いの無い笑顔で言われちゃったら、もう何も言えなくなってしまう。

「……先輩って。女で身を滅ぼすタイプかもですね」

「え…えええええっ!?

「あははー、冗談ですよー」

 この人って。もしかしなくても、すごく…。

「あ。先輩、頬に生クリームついてますよ」

「えっ」

 先輩はあわてたように片手を頬にやるけれど、残念ながら反対方向なのよね…と、ふとここでいたずら心を起こしてしまったあたしは、よく考える間も無く実行に移していた。

「ほら。ここですよ」

 言いながら、あたしは自分の唇で、先輩の頬についた生クリームをぬぐった。ふむ。自分で言うのも何だけど、なかなかいいお味。弟たちは育ち盛りなだけあって、どんなもんでも食べちゃうから、あの子たちの『美味しい』はあんまアテにならないのよねー、なんて思っていたあたしの目の前で、平尾先輩の顔がすさまじい勢いで赤くなって。しまいには、噴火しちゃうんじゃないかってぐらいに真赤になってしまった。

「むむむむむむむ、室井っっ いいいいい、いったい何を!?

 うわあ、先輩耳まで真っ赤。いま血圧計ったら、すごいことになってるんだろうなあ。

「あ、めんどくさかったんでつい」

「めめめめめめ、めんどくさいって」

 すごい。ホント、少女マンガのヒロインのように、恥じらいまくり。この人って、やっぱりもしかしなくても、すごく可愛い人だよなあ。こんなの前にしたら、ついからかわずにいられなくなる少女マンガのヒーローたちの気持ちが、いますごくわかる。って、あたし女なのに。まあ、相手がホントの女の子じゃないから、素子とは違うよね、セーフだよね。

「次は、他の誰もいないところで唇と唇でしてみましょっか?」

 あたしの半ば本気のトドメの一言に、先輩の鼻から赤いものが一筋垂れて。そのまま、後ろにバターンッと倒れてしまった。しまった、許容範囲を超えてしまったかっっ

「うぎゃー、先輩しっかりしてくださいーっ!!




―――――恋というものが甘いばかりでないことを、あたしはよく知っているけれど。

いまはとりあえず、この人と少しばかり甘い時間を過ごしてみてもいいかも知れないと、思ってみたりした……………。





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